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『信用してはならない映画評の書き手の見分け方』について

誰も信じるな - 伊藤計劃:第弐位相

ぼくが映画を意識的に観るようになったきっかけ、それは伊藤さんが書き残したテクストの数々だ。そして彼の映画への接し方や映画評の書き方などは、ぼくの中でとても大事な指標となっている。なかでもこの記事については、Twitterで映画についてのことをつぶやくとき、必ず思い返すよう心がけている。

 

この『信用してはならない映画評の書き手の見分け方』という記事は、その独善的な言いもあり、コメント欄には記事に対する結構な文量の批判が投稿されている(ほぼ、ひとりの人物によるものだが)。その批判によるとタイトルからして語弊のある書き方だということだが、果たして本当にそうだろうか。

ここでいう語弊というのは「信用ってなんだ?」ということらしいが、ぼくは十分に記事の意図を明文化したタイトルだと思う。何と言っても『信用してはならない映画評の書き手の見分け方』だ。このタイトルにおける「信用」の意味は、面白いかどうか、要するに良い悪いといった評価のことであり、それは記事を読んでも一目瞭然である。で、それが何についての信用かといえば、それはタイトルにもあるように「映画評の書き手」についてだ。

だからコメント欄に書き連ねられた批判は、根本的に論点がズレているのだ。

この記事は、ハズレに当たらないための映画の選考方法について書いているわけではない。「(批評や感想に見る)信用できる/信用できない映画の見分け方」ではないのだ。この記事の拠り所が映画そのものではなく、「映画評の書き手」にあるということは、タイトルとして初めから明確に記されている。

また、このタイトルは二重の意味で取ることもできる。

「信用してはならない映画評の、書き手の見分け方(信用してはならない映画評を書く書き手の見分け方)」

「信用してはならない、映画評の書き手の見分け方(信用してはならない書き手による映画評の見分け方)」

以上のように、タイトルの「信用してはならない」という部分は映画評にかかっているとも読めるし、書き手にかかっているとも読める。そして実際の記事の内容としても、その両方を見分けるコツが書かれている。そもそもネット上では文章とそれを書いた書き手というのはほとんど同義といえる。ネット上である人物を判断する材料として、文章は非常に大きなウェイトを占めるからだ。

まあどちらにせよ、それは映画の面白さについての信用のあれこれを意味してはいない。

さらに、

まぁ、色んな意見があるとは思いますけど。
「下手に検索であさらずに、信頼が置けるサイト(や人物)をあらかじめブックマークしておく方が賢明な気がします。」
ってのがリテラシーってやつかなぁと。要は自分にとって重要か否かですよねぇ。

これもまた記事が書かれた真意を取り違えた物言いだ。「下手に検索であさらずに、信頼が置けるサイト(や人物)をあらかじめブックマークしておく方が賢明な気がします。」とは考えていないから、それでは満足できないからこそ、この記事が書かれるに至ったのではないか。

つまらない映画評の書き手を減らし、そして逆に面白い映画評の書き手を増やす。そのための戦略として、この記事は存在している。