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ゼロから作る「映画鑑賞スケジュール管理アプリ」

知識0のド素人がスマホアプリを作っていくブログです。

個人で映画アプリの開発!

コンセプト「その人の人生と映画との距離を限りなく近く!」

 映画は大変すばらしい娯楽である。映画には、ドラマ、アクション、恋愛、ホラー、サスペンス、コメディ、エロ、グロ、その他、人生を豊かにするありとあらゆるものを内包する懐の深さがある。そして今や映画は映画館という場に限らず、家庭のテレビは言わずもがな、タブレットスマホなどの個人の携帯端末で視聴することも可能となった。いよいよ最小単位まで切り刻まれたと言えるほど、そのポータブル化が進んだ。

 

 しかし。映画館がなくならないのはなぜか?  それは映画がいつの時代にあっても、ある物語や情景を「体感すること」を志向してきたからだと思う。「物語」を乗せる娯楽として、映画が多媒体の娯楽と一線を画しているのは、まさにその点に尽きるんじゃないか。どデカイスクリーンの、音響設備も整った映画館で観る映画というのは、やっぱり特別で格別のものだ。とはいえ、小説や絵本、漫画、テレビ、ゲーム、演劇などが劣っているなどと言いたいわけじゃない。映画は映像と音でもって、われわれに迫ってくる。「臨場感」という点でいえば演劇には到底敵わないが、物理的な制約からくる「バリエーション(単純に文化的人口、上演スペース、美術や役者等の物的人的コスト、上演数、チケット料金、広報難易度、その他さまざまな要素からくる作品数の限界。そして映画のように同時に複数の場所で公演することができない)」において、映画は演劇に優っている。

 

 …とまあ、何が一番言いたいのかというと。

 

「もっと多くの人に映画館で映画を観てもらいたい!」

っていうこと。


 そのためのハードルを極力低くしたい。映画鑑賞料金を下げたり、映画館の数を増やしたりすることは、正直いって個人の力じゃむずかしい。が、そういった直接的な施策とは別なやりかたで、人生と映画(≒映画館の映画)をシームレスにすることはできる。映画館にアクセスするためのストレスや難易度をなるたけ下げるためのアプリ。それをこれから作っていきたい。

 

…とまあ、一番の動機としては、そういう理想の映画アプリがないから自分で作ってしまおう!  ということなんだけれども。

 


以後、よろしくお願いします。

 

 

映画”評”ではない映画評について

 映画批評において、ひたすらにジャンルやテーマの近しい既存作品の名前を列挙するのは止めるべきだと思う(目的が"批評"ではなく"宣伝"ならば、それはアリな方法だが…)。読み手のイメージを膨らませるために数例ほど挙げるとか、作品Aと作品Bの意外な関係性や面白み、その論理を展開するとかでないなら、そういった、"別作品による過剰なタグ付け"は避けるべきだ。

 きっと、自分のコレクションをひけらかすのに似た快楽もあるのだろう。この映画は、自分が知っている(あるいは好きな)これこれという映画にこれだけ似ているところがありますよ。あるいはオマージュなんですよ。だからなんだ。ある作品を語るのに、やたらめったら別の作品の名前を持ち出すだけってのはつまらない。そういうのはWikipediaにでもひっそりアーカイブすればいい。
 ツイッターでいうリツイートと同じ感覚だろう。映画についての語りを、別の映画(のタイトル)に外注する。それってただ自分のコレクションに加えるということ、それだけにすぎない。誰も得しないし、ほとんど読む価値がない。そんなものは”批評”という読み物じゃない。
 自分の言葉で語るべきところを、たかだか別作品のタイトル一言に委託するということ。批評のメインである映画、比較対象となる映画、どちらに対しても失礼だと思う。
 目を向けるべきはその映画なりの良い部分だ。これとあれとそれとこれのコラージュなんだよと偉そうに指摘するのが映画批評なのではない。
 だから、何がどう面白かったのか、それを熱く語ってほしいんだ。

 最近は、自分の頭でものを考えるということがとんと減った。知りたいと思ったことはネットで検索すれば大概出てくる世の中だ。そんな体たらくだから、ぼくの思考力はずいぶん落ちたことだろう。

 良く言えば、考えることの簡略化。知的労力がかからず、ある意味経済的かもしれない。悪く言えば、思考の外注化。自分の頭でものを考えて答えをひねり出す努力をしないで、他人の脳みそに頼りきる。それって楽ではあるけれど、達成感はない。でも、万能感があるからこそやっかいだ。答えを検索しただけなのに、自分は賢い人間だという気分に陥る。

 昔、何かの評論で読んだ。現代は「活字離れ」ではなく「活字まみれ」なのであると。現代の若者は本や新聞を読まなくなった。それもそうだが、実際は活字の踊る媒体が多様化している(昔のように紙媒体に限らず)のだ、という意味らしい。街頭広告やスマートフォンを例に出すまでもなく、世の中を見渡せば、ありとあらゆる表現媒体に活字が、言葉が、付きまとう。

 「活字まみれ」。なかなか面白い言い回しだけれど、ぼくはそれを現在に則して少し言い換えたい。「活字まみれ」はやがて、「答えまみれ」になってしまったのではないだろうか。

 「答えまみれ」と言っても、ここで言う「答え」はそれが必ずしも「正しい」とは限らない。いやむしろ「正しさ」とは関係がない。誰かが「これが答えだ」と提示してさえいれば、それは内容の正否に関わらず「答え」なのである。玉石混淆とでもいった風に、それぞれが提示する「答え」の数々で混沌としたさま、そんな現状を「答えまみれ」と言い表したい。

 そんなことは有史以来ずっとそうだったかもしれないけれど、今やめいめいが自己主張しすぎている。選択肢が多すぎ、世の中おびただしい量の「答え」にまみれている。

 インターネットなどは特に、それぞれの「答え」でけたたましい。暴力的と言えるほどだ。自ら「答え」を考えひねり出さなくてはならないという悩みが、どの「答え」を選ぼうかという贅沢な悩みに取って代わる。

 

 まあ何が言いたいかというと、スマホとにらめっこするだけの人生ってもったいなくね?ということなのでした。

『信用してはならない映画評の書き手の見分け方』について

誰も信じるな - 伊藤計劃:第弐位相

ぼくが映画を意識的に観るようになったきっかけ、それは伊藤さんが書き残したテクストの数々だ。そして彼の映画への接し方や映画評の書き方などは、ぼくの中でとても大事な指標となっている。なかでもこの記事については、Twitterで映画についてのことをつぶやくとき、必ず思い返すよう心がけている。

 

この『信用してはならない映画評の書き手の見分け方』という記事は、その独善的な言いもあり、コメント欄には記事に対する結構な文量の批判が投稿されている(ほぼ、ひとりの人物によるものだが)。その批判によるとタイトルからして語弊のある書き方だということだが、果たして本当にそうだろうか。

ここでいう語弊というのは「信用ってなんだ?」ということらしいが、ぼくは十分に記事の意図を明文化したタイトルだと思う。何と言っても『信用してはならない映画評の書き手の見分け方』だ。このタイトルにおける「信用」の意味は、面白いかどうか、要するに良い悪いといった評価のことであり、それは記事を読んでも一目瞭然である。で、それが何についての信用かといえば、それはタイトルにもあるように「映画評の書き手」についてだ。

だからコメント欄に書き連ねられた批判は、根本的に論点がズレているのだ。

この記事は、ハズレに当たらないための映画の選考方法について書いているわけではない。「(批評や感想に見る)信用できる/信用できない映画の見分け方」ではないのだ。この記事の拠り所が映画そのものではなく、「映画評の書き手」にあるということは、タイトルとして初めから明確に記されている。

また、このタイトルは二重の意味で取ることもできる。

「信用してはならない映画評の、書き手の見分け方(信用してはならない映画評を書く書き手の見分け方)」

「信用してはならない、映画評の書き手の見分け方(信用してはならない書き手による映画評の見分け方)」

以上のように、タイトルの「信用してはならない」という部分は映画評にかかっているとも読めるし、書き手にかかっているとも読める。そして実際の記事の内容としても、その両方を見分けるコツが書かれている。そもそもネット上では文章とそれを書いた書き手というのはほとんど同義といえる。ネット上である人物を判断する材料として、文章は非常に大きなウェイトを占めるからだ。

まあどちらにせよ、それは映画の面白さについての信用のあれこれを意味してはいない。

さらに、

まぁ、色んな意見があるとは思いますけど。
「下手に検索であさらずに、信頼が置けるサイト(や人物)をあらかじめブックマークしておく方が賢明な気がします。」
ってのがリテラシーってやつかなぁと。要は自分にとって重要か否かですよねぇ。

これもまた記事が書かれた真意を取り違えた物言いだ。「下手に検索であさらずに、信頼が置けるサイト(や人物)をあらかじめブックマークしておく方が賢明な気がします。」とは考えていないから、それでは満足できないからこそ、この記事が書かれるに至ったのではないか。

つまらない映画評の書き手を減らし、そして逆に面白い映画評の書き手を増やす。そのための戦略として、この記事は存在している。